さかもとのブログ

つらつらと

「唐揚げの話」

最近これを読んでいる。

村上春樹 雑文集

村上春樹 雑文集


1つ1つの文章が、まさに村上春樹的文章で、短いけれど、ぐっとくるものがいくつもある。ハルキさんが好きな人で、まだ読んでいない人はぜひ読んでほしい。とくに村上春樹のエッセイが好きな人にはたまらないと思う。

この中に「自己とは何か(あるいはおいしい牡蠣フライの食べ方)」という、いかにもハルキさん的なタイトルがついている文章がある(だいたいどのタイトルもハルキさん的なのだけれど)。私という迷宮という本の「解説みたいなもの」として書かれた文章だ。この文章の中で、「牡蠣フライ理論」というものが持ち出される。これは読者からの質問に答える形で書かれている。「牡蠣フライ理論」とは、牡蠣フライを語ることによって、自分自身を語るというものだ。
自分も牡蠣フライを語ることによって、自分自身を語ってみたいのだが(いや、別に語りたくはない)、牡蠣フライはあんまり好きじゃないので、ここは「唐揚げ理論」とすり替えて、語ってみようと思う。

寒い冬の日曜日の夜に、ぼーっとテレビを見ていると、唐揚げ特集がやっている。みんなが大好きな唐揚げ。僕だって、昨日の飲み会でたんまり食べた。ビールと唐揚げ。これだけあれば、つまらない飲み会でも十分に満足できるのだ。ビールとの最高の組合せは最高だし、唐揚げはさくっとしていて、心から満足して、しばらくは唐揚げはいいかな、体重も気になるし、と思っていた。
でもしゅーっと音が聞こえてきそうな揚げたての唐揚げをテレビを見ていると(ハイビジョンのおかけで揚げたてが実に生々しいのだ)、無性に唐揚げが食べたくなる。自分に言い聞かす、昨日食べたじゃないか、って。そう、昨日あれだけ唐揚げを食べて、ビールを飲んで、十分に味わったのだ。
けれど、止まらない。それが唐揚げのパワーだ。揚げたての音が耳から離れない。かりっとかじりついたときに、しゅっと出てくる肉汁が、もう口の中で止まらない。
僕は行きつけの肉屋さんに急ぐ。格好なんて気にしない。ジャージのうえにダウンを羽織る。今日はどこにも出かけるつもりはなかったから(だってあれだけ唐揚げを十分に味わったのだから)、髭だって剃っていない。行きつけの肉屋は歩いて5分。昨日お店で食べた唐揚げとは違って、さっぱりした唐揚げ。がつんとした味の唐揚げもいいけれど、この店のさっぱりとした、でも深い味わいの唐揚げもたまらない。
肉屋に着く。唐揚げがある。だが、僕は揚げたての唐揚げが食べたい。おじさんに揚げたての唐揚げをお願いする。8個。今十分に唐揚げを満足するには、5個では足りないのだ。「8個ね、はいよ」と言って、おじさんは唐揚げの準備に取りかかる。待っている間が実に長い。
10分後、揚げたての唐揚げが出てくる。1、2、3、、おじさんが袋に入れる唐揚げをじっと見つめる。確かに8個ある。おじさんから奪い取るように唐揚げを受け取って、お金を払って、自宅へ急ぐ。自宅にはビールが待っている。キリンの一番搾り。このビールはどんなものとも合うのだ。
家に着いて、手を洗って、冷蔵庫からビールを取り出し、冷やしておいたグラスを冷蔵庫から取り出す。まだ熱々の唐揚げは、袋から取り出して少し大きめの皿に移す。
冷えたグラスにビールを注いで、グラスの3分の1ぐらいをぐいっと飲む。さて、これで唐揚げの準備は万端。ごくりとつばを飲み込んで唐揚げに箸を伸ばす。。うまい。まだ熱々で衣はかりっとして、肉汁じゅっとしている。半分を食べて、すかさず残りを食べる。口の中に残った肉汁の香りを堪能して、ビールを一口。うまい。
唐揚げ8個を食べきって、ビールを飲みきる。うまかった。からあげ万歳!

なんてね。
ハルキさんの新作、楽しみです。

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

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