さかもとのブログ

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もっと政治に関心を

職業としての政治 (岩波文庫)

職業としての政治 (岩波文庫)


以下、訳者解説より抜粋

さて、ヴェーバーによれば、政治の本質的属性は権力であり、政治とは「国家相互の間であれ、国家内部においてであれ、権力の分け前にあずかり、権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力である」。政治を行うものは、権力それ自体のためであれ、他の目的のための手段としてあれ、権力を追求せざるをいない。政治はどこまでも政治であって、「倫理」ではない。・・省略・・しかし一切の「政治が権力―その背後には暴力が控えている―というきわめて特殊な手段を用いておこなわれているという真実」は、政治の実践者に対して特別な倫理的要求を課するはずである。
主観的どれほど「高貴な意図」から出たにせよ、それだけでは、おのれの権力行使を倫理的に免責できぬはずである。たしかに行動が虚無におちいないための内的な支えとして、信念(理想)をもつことは必要である。しかし政治の手段が暴力であり、権力が一切の政治行為の原動力である以上、「信念」だけではすまされない。キリスト教的倫理(福音の倫理)と相容れない政治の世界に身を投じた者が「魂の救い」まで期待することは許されない。目的と手段の緊張関係は、ここでは他のどんな生活領域におけるよりも厳しい。善からは善がのみが生ずるといまだに信じているものがいるとすれば、それこそ政治のイロハもわきまえない「政治的未熟児」である。指導者のよき動機もしばしばその部下(「人間装置」)の余りに人間的な動機によって裏切られるというのが、政治の現実である。「政治に身をタッチする人間は、権力の中に身をひそめる悪魔の力と手を結ぶもの」である。しかもこの悪魔は恐ろしくしつこく老獪である。「もし行為者にこれが見抜けないなら、その行為だけでなく、内面的には行為者の自身の上にも、当人を無残に滅ぼしてしまうような結果を招いてしまう」。可測・不可測の一切の結果に対する責任を一身に引き受け、道徳的に挫けない人間、政治の倫理がしょせん悪をなす倫理であることを痛切に感じながら、「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間だけが、政治への「天職」をもつ―こうヴェーバーは結んでいる

この本を読んで感動してしまった。日本人は、過去の自分自身も含めて、政治に関心がなさすぎる。自分たちの将来にかかわることなのに!こういった悪法が今にも可決されそうなのに、ほとんどの人はそのことを知らない。今はインターネットでいろいろな情報が手に入るのだから(それこそがネットのよさ)これを使わない手はない。ぜひ勉強してほしい。自分もまだまだ勉強中の身であるが。。